横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、絵の見方について。
- 2022/03/26
- 16:12
芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、絵の見方について。
* * *
絵の見方ですか? どう見ればいいのか? 今週の担編さんの疑問です。ただぼんやり見るだけではダメなんでしょうか。何か難しい言葉が必要なんでしょうか? 自信ないですね。
もう面倒臭いから結論から言っちゃいます。そんなものはないです。絵の見方なんて本があるから、大方の人は悩むのです。絵は小説や音楽のように理解する時間など必要としません。パッと見る、それでいいのです。一秒でも一時間かけて見たければそれでいいのです。でもわからなかったと思えば、わからなかったということがわかったのです。それじゃ納得できませんか?
絵なんてわかる、わからないで判断するものではないのです。林檎を食べて、その味を説明したいですか。林檎も絵も同じです。説明などできないでしょう。感覚は言葉を越えています。絵は感覚の産物です。だから、わかる、わからないの問題を頭から消して下さい。先ず、わかろうとすることが、間違っているのです。最初から答えのないものに答えを求めることは禅の公案を頭で考えるようなものです。答えのないものに答えを求めて何が得られるのですか。
僕は絵を描きます。何のために? そんな大義名分の目的などありません。強いていえば、自分というか人間が謎の存在だから、目的のない絵を描くだけの話です。そして、やっぱり自分は謎の存在だったということを知る。それで充分です。絵を描く理由はこの程度のものです。そうして描かれた絵の見方が、わからない、当然です。わかる、わからないを基準にして絵など見るとヘトヘトに疲れます。洋服の胸襟を開くように、感覚で対峙して下さい。
だけどですね、現代美術はそのわからないをわからそうとした作風で美術界と対峙しています。コンセプチュアル(観念)アートというのがそれです。感覚に訴えるというよりは知がその作品の根拠になっています。僕の作品はコンセプチュアルというより、感覚的に描きたいものを手当たり次第に主題も様式もへったくれもなく、衝動を優先して、アスリートのように、スピーディに描きます。つまり脳の作用を関与させない、感じたままを描きます。わかる、わからない以前の問題です。
現代美術の主流はコンセプチュアルアートです。この種の作品に関してはわかる、わからないが前提になるかも知れません。知的で頭脳的です。このような作品の前では確かに、わかる、わからないが問題になるかも知れません。一般大衆の中でも観念的な人達は多いと思います。このような人達を対象にすると、わかる、わからないという問題が問題になるでしょうね。すると人類の中でも観念的なタイプの人間と感覚的な人間に分かれます。僕はどちらかというと感覚的な人間です。物事を肉体的にとらえるタイプです。
コンセプチュアルアートの中にも感覚的な人もいます。また感覚的な人の中にもコンセプチュアルな考えをする人もいます。絵がわかる、わからないは、創る側にもありますが、見る側の人間の問題でもあると思います。観念的な観賞者はコンセプチュアルを好みます。そしてわかることで作品を理解します。一方、感覚的な人は理解のレベルを越えて作品を観念や論理や思想を越えて魂で感応します。
だけど美術教育はやはり知識を優先します。絵は僕みたいにわからなくていいという指導者はいません。世の中はわからない物だらけだけれど、それじゃ困る、なんとかわからせようとします。わからないものが存在するのは危険なのです。とにかく解明するために科学を導入して、この世からわからないものを追放しようとします。ところがわれわれの住むこの地球はわからないものだらけです。そのわからないものに科学的メスを入れて、わからせようとしています。わからないものがこの世に存在することは不気味なんです。
わからないものはわからないでいいじゃないかというのが僕の態度です。人類は全て解明したかのように思っていますが、とんでもないわからないもので満ちあふれているのです。だから僕は絵を描くのです。絵を描くことはわからないものを解明する作業というより、もっとわからない深淵にどんどん降下していくことです。そしてその果てに宇宙があるのが微かに感じとれます。つまり絵を描くということは宇宙を相手にすることのように思われます。宇宙の謎は自分自身の謎でもあります。
絵がわかるか、わからないかの話が飛躍して宇宙の話になってしまいましたが、何しろ絵を描くということは創造することですから、当然宇宙の創造とリンクします。絵とかかわることは広大無辺な宇宙を共有することです。だから、わからなくてもいいのです。
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絵の見方ですか? どう見ればいいのか? 今週の担編さんの疑問です。ただぼんやり見るだけではダメなんでしょうか。何か難しい言葉が必要なんでしょうか? 自信ないですね。
もう面倒臭いから結論から言っちゃいます。そんなものはないです。絵の見方なんて本があるから、大方の人は悩むのです。絵は小説や音楽のように理解する時間など必要としません。パッと見る、それでいいのです。一秒でも一時間かけて見たければそれでいいのです。でもわからなかったと思えば、わからなかったということがわかったのです。それじゃ納得できませんか?
絵なんてわかる、わからないで判断するものではないのです。林檎を食べて、その味を説明したいですか。林檎も絵も同じです。説明などできないでしょう。感覚は言葉を越えています。絵は感覚の産物です。だから、わかる、わからないの問題を頭から消して下さい。先ず、わかろうとすることが、間違っているのです。最初から答えのないものに答えを求めることは禅の公案を頭で考えるようなものです。答えのないものに答えを求めて何が得られるのですか。
僕は絵を描きます。何のために? そんな大義名分の目的などありません。強いていえば、自分というか人間が謎の存在だから、目的のない絵を描くだけの話です。そして、やっぱり自分は謎の存在だったということを知る。それで充分です。絵を描く理由はこの程度のものです。そうして描かれた絵の見方が、わからない、当然です。わかる、わからないを基準にして絵など見るとヘトヘトに疲れます。洋服の胸襟を開くように、感覚で対峙して下さい。
だけどですね、現代美術はそのわからないをわからそうとした作風で美術界と対峙しています。コンセプチュアル(観念)アートというのがそれです。感覚に訴えるというよりは知がその作品の根拠になっています。僕の作品はコンセプチュアルというより、感覚的に描きたいものを手当たり次第に主題も様式もへったくれもなく、衝動を優先して、アスリートのように、スピーディに描きます。つまり脳の作用を関与させない、感じたままを描きます。わかる、わからない以前の問題です。
現代美術の主流はコンセプチュアルアートです。この種の作品に関してはわかる、わからないが前提になるかも知れません。知的で頭脳的です。このような作品の前では確かに、わかる、わからないが問題になるかも知れません。一般大衆の中でも観念的な人達は多いと思います。このような人達を対象にすると、わかる、わからないという問題が問題になるでしょうね。すると人類の中でも観念的なタイプの人間と感覚的な人間に分かれます。僕はどちらかというと感覚的な人間です。物事を肉体的にとらえるタイプです。
コンセプチュアルアートの中にも感覚的な人もいます。また感覚的な人の中にもコンセプチュアルな考えをする人もいます。絵がわかる、わからないは、創る側にもありますが、見る側の人間の問題でもあると思います。観念的な観賞者はコンセプチュアルを好みます。そしてわかることで作品を理解します。一方、感覚的な人は理解のレベルを越えて作品を観念や論理や思想を越えて魂で感応します。
だけど美術教育はやはり知識を優先します。絵は僕みたいにわからなくていいという指導者はいません。世の中はわからない物だらけだけれど、それじゃ困る、なんとかわからせようとします。わからないものが存在するのは危険なのです。とにかく解明するために科学を導入して、この世からわからないものを追放しようとします。ところがわれわれの住むこの地球はわからないものだらけです。そのわからないものに科学的メスを入れて、わからせようとしています。わからないものがこの世に存在することは不気味なんです。
わからないものはわからないでいいじゃないかというのが僕の態度です。人類は全て解明したかのように思っていますが、とんでもないわからないもので満ちあふれているのです。だから僕は絵を描くのです。絵を描くことはわからないものを解明する作業というより、もっとわからない深淵にどんどん降下していくことです。そしてその果てに宇宙があるのが微かに感じとれます。つまり絵を描くということは宇宙を相手にすることのように思われます。宇宙の謎は自分自身の謎でもあります。
絵がわかるか、わからないかの話が飛躍して宇宙の話になってしまいましたが、何しろ絵を描くということは創造することですから、当然宇宙の創造とリンクします。絵とかかわることは広大無辺な宇宙を共有することです。だから、わからなくてもいいのです。
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